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2011/05/01(日)10:59
活動報告
―宮精連はこんなことやっています―

Yさん




仙台市の障害者福祉施策の充実を求める要望書提出!

 8月22日(金)、宮精連は、「みやぎアピール大行動」実行委員会の一員として、仙台市への要望書を提出し、1時間30分にわたって交渉を行いました。3障害・11団体16名が参加し、市当局からは保健福祉部長以下9名が出席しました。

 以前より提出していた43項目の要望を16項目に絞り込み、来年度からの実現を求めるより具体的な要望書となっています。

 宮精連としては、「自立支援法によって倍増した通院医療費自己負担について、(他の政令市のように)仙台市独自の負担軽減策をとって欲しい」と訴えました。

 しかし市側は、「要望いただいたものを実施しようとするといくら必要か、どの施策を削らなければならないか、ということが頭をよぎる」と語り、予算措置が困難であることを強調しました。これに対して、私たちは先の梅原市長の「障害者福祉施策は優先課題」との言質をふまえて、財務当局から予算を獲得して欲しいとつめよりました。しかし、残念ながら議論は平行線のまま終了してしまいました。

 ひとの暮らしやいのちに関わる問題こそ政治や行政の最優先課題、そして責任だと私たちは考えます。今後ともあきらめることなく、仙台市や宮城県と交渉を継続してゆく考えです。

バス料金割引を宮城県バス協会に申し入れ!

 精神障害者手帳が改訂され、写真貼付が義務付けられました。しかし、他の身体・知的障害者と違ってJRやバスなどの割引制度がなされていません。このため、仙台市以外に居住する精神障害者は通院時などに多大な交通費がかかり、厳しい状況におかれています(仙台市民には「ふれあい乗車証」制度あり)。

 これまで、JRやバス会社は、写真がなく本人確認が出来ないという理由で、精神障害者手帳使用者の料金割引を拒んできました。写真貼付が義務付けられた現在、この理屈は通らないことになります。

 8月26日(火)、私たち宮精連は、宮家連のメンバーとともに、計8名で宮城県バス協会に要請行動を行いました。精神障害者への福祉政策のおくれや窮状を訴え、バス料金の割引を求める要望書を提出しました。

 これに対してバス協会側から、「要望の趣旨はよく理解した。バス協会加盟の各バス会社に通達する。」との回答を得ました。「ただ、協会としては各バス会社の経営までにはタッチできないので…。」と言葉を濁す場面もあり、ひとすじなわではいかない印象も持ちました。

 今後も継続した取り組みが必要な課題です。
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2011/05/01(日)10:55
優しい人

Mさん



君は優しい人
君は僕の話を沢山聞いてくれる人
でも僕は君の話を聞かない
ごめんね こんな僕で
だから 君がピンチの時に少しでもそばに居てあげようと決めたんだ
そばにいると 君はいつだって微笑んでくれる
遠くに居ても 君はいつだって声をかけてくれる
明日も話を聞いてくれないかな
君の笑顔に明日も会いたい

君は優しい人
君は誰からも好かれる友達の多い人
でも僕に君は痛みを言わない
たぶんね そんな僕は
だから 君が嫌な人と会う時に少しでも守ってあげようと決めたんだ
そばにいても 君はいつだって暴言を言わない
ひとりでいても 君はいつだって声を殺している
明日は話を聞いてあげようかな
君の素直な声を聞きたい

君は優しい人
君は僕としばらくさよならしてしまう人
でも僕は君に涙を見せない
ごめんね 変な僕で
そして君は お別れをする時に少しでも微笑みを絶やさない様に無理するんだ
そばにいると 君は最後まで微笑んでくれる
遠くに行くと 君は最後まで手を振ってくれる
かざした手を降ろして泣いていた
君の泣顔に心も泣きたい

君は優しい人
君は優しい人
2011/05/01(日)10:53
てんかんをメジャーな病気にしたい。

Kさん



私がこの病気になったのは3歳の時、父が可愛いと言って銀杏を食べさせてくれたのが元で消化不良を起こし、仮死状態に成った、その時の事が障害として残りそれからてんかんになりました。

初めは炉端の灰をかきまわしたりの多動症でしたが、小学校の頃、釣りに行って発作を起こし川に入って行き、冷たいのでモウロウとしながら川から上がって来た思い出があります。少し深い所や流れの急な所では命も無かったのではと今になって思うとゾーとします。

病院も東北大学、宮城野原の国立仙台病院、静岡東病院『現…静岡てんかん神経医療センター』に行き
宮城に戻って来て来ました。それから色んな病院に係り、遠回りしてベーテルにたどり着きました。

ベーテル病院での初診にMRIの検査で手術の方が治るのではと言われ
平成十二年、九月頃にベーテル病院に入院しました。

検査で外科手術が出来る事が判り、平成十三年、二月三日に広南病院に転院しました。

広南病院で検査を続け、スペクトではっきりした発作の焦点が判り五月に手術して、
六月に退院しましました。それから七年位になりますが今は一日・ガバペン1200と テグレトール 500飲んでいますが発作は全然ありません。

退院してから、父が『お前、変わった、やさしくなったなぁ~』と言ってくれました。その父も私が良くなった事を知りながら、私が退院してから、20日目で心臓病で亡くなりました。銀杏を食べさせて悪く成った事を父はずーと気にしていたのですが、亡くなる前に私が良くなったのを判ってくれたので私も安心しました。

3歳の時亡くなった私ですがこれからの人生はおまけの部分です。

てんかんとは長い付き合いでしたが、この病気になった事が私の宝に成っています。

それは日本てんかん協会宮城支部の設立に関わった事も、はこべ作業所の設立に関わった事も大きな力に成っています。

てんかん協会の宮城県支部を作った時、西多賀病院のスタッフがてんかんの事を知らなかったが為に皆でてんかんの事を勉強したり、それとてんかんの情報交換の場が欲しく、日本てんかん協会宮城県支部を設立しました。

てんかんはその頃はまだ難病の中に入っていて何の福祉サービスもなかったのでマイナーの病気だったのです。今でも未だガンとか風邪とか一般の病気のようにメジャーの病気には成りきっていません。

てんかんをメジャーの病気にするのは皆が自分の病気の事を言葉に出して言って行かねば成りません。まだ、まだ数少ない人たちが啓蒙活動をしても他の障害のようではありません。てんかんの啓蒙運動にはてんかんの当事者が自分の病気の事を自分の言葉で訴えて行くのが一番と思っています。自分の病気は自分が一番、判っているのです。

ほかの病気の人よりもてんかんの人は自分の病気の事を表に出さないで理解する人は他の病気と比べて少ないのです。
それではてんかんに差別・偏見があると言いますがそんなことは言えないと思います。

また、これではいつまで経ってもこの問題は続くと思います。

自分たちの事を自分たちで言わないで、病気の事を一般の人たちは理解してくれません。

てんかんは見えない障害ですので、隠していれば判らないし、黙っていれば判らないのです。ただそれをずーとやっていれば何時まで経っても表に出られないのです。判らないから差別があるのです。
それにはコツコツと訴えて理解してもらうのが一番なのです。

また、てんかんの当事者のサポートのやり方も足りないし、その人が思うサポートが出来ていません。当事者の目線でのサポートがなされていません。

最後にてんかんと言う病気は中途半端の病気です。発作が1回少なくなったから、【少し良くなった】で終わりです。

私もそうでしたが発作が少なくなったから少し良くなったと…
てんかんの治療はキッチリとやる時はキッチリとやらないとダメで病気と向かい合ってキチンと治したいと私は思いました。
2011/05/01(日)10:48
援護寮での9ヶ月(1)

Wさん



私は平成15年の6月23日に住み慣れた富谷のS病院を退院する事になります。その前に私は鹿島台のA病院に15年間入院しておりましたので、まさに私は30年振りの社会への生還となりました。S病院を退院する10日程前に、私はケースワーカーのMさんの勧めで生地古川に創設された援護寮に体験入寮に行く事になりました。私は院内で、酔生夢死の覚悟でしたので、援護寮が古川にできた事は、新聞を読み知っておりましたが、まさか私が援護寮に体験入寮に行く事になるとは夢にも思ってみませんでした。

 体験入寮の当日、母とその後私の親代わりとなるWさんが車を運転して、私を迎えに来て下さいました。
Wさんは現在84歳になりますが、とても若々しくて、古川の駅前の行政区長を14年間務めたり、定年退職後、行政書士の資格を取り活躍するとても顔の広い方です。Wさんにはその後私が市営住宅に入居する時の保証人にもなって頂きました。Wさんの奥さん、K子さんが私の母と知り合いで、Wさんにはその関係で母の税務の仕事をやってもらっていたようです。

 私が母に何度も退院したいと病院から手紙を出したところ、母は困り、K子さんに相談したそうです。K子さんは福祉に関しても詳しく、援護寮を知っておりましたので、行ってみて、見学しながら私の事を相談してみたらと行って下さったそうです。それで母とWさんが一緒に援護寮を訪れて見学してきたそうです。

 その結果、私を入寮させたらという事になり、S病院に行き、母とWさんはS院長に相談して私の体験入寮となったようです。私は現在、Wさん宅によく遊びに行きます。その時、話すのですが、あの時Wさんご夫妻がいなかったら私は今でもS病院に入院していただろうと。その意味で、ご夫妻は私にとり大恩人と言ってよい方です。私が母に退院後聞くと、私を退院させる気持ちは当時の母は持っていなかったようです。私はWさんご夫妻のお陰でS病院から援護寮に体験入寮にいく事になりました。

 母とWさんが迎えに来てくれて私は富谷から古川の援護寮に向かいました。古川に入り、私は高層ビルの多さに目を見張りました。私は30年間も入院していた社会的入院者でしたのでこの驚きは当然かもしれません。援護寮に着き、私は担当の職員から1階にある部屋に案内されました。その後の事は詳しく打ちませんが、社会的入院者だった私にとり、援護寮での2泊3日の生活は迷いもなく快適でした。ただ入寮最後の晩に、食事作りを4人の寮生の方と一緒にやった事が印象に残ります。これは体験入寮に来ると誰にもあるようで、入寮させるかどうかの適性を判断するための、もののようでした。

 私はS病院に戻る前日に、Nさんという女性の職員から「渡辺さん、来るのを待っていますから一緒にやりましょう。」と言われました。Nさんは以前、S病院にケースワーカーとして勤めておりましたので私を良く知っている方です。Nさんのその言葉を聞き、私は帰る車の中で入寮は大丈夫と思いましたが、決定するまで果たして入寮できるかどう心配でもありました。帰院して1週間後に入寮決定の通知がありました。その2日後に私は退院となり、荷物を纏めて古川の援護寮に向かいました。

 退院した日の私は、30年間の入院生活を思い感慨もひとしおでした。援護寮での生活がどのようになるか不安もありましたが、ようやく社会に復帰できますので喜びの方が大きかったです。Wさんの運転する車で援護寮に着き、私はその後9ヶ月生活する事になる2階の207号室に荷物を運びました。母とWさんは一旦自宅に帰り、午後から私の寝る布団を運んできて下さいました。また、私は母とは別にAさんという痩身で美人の若い女性から、私のこれまで聞き取りが行われました。Aさんの傍にNさんが立って聞いておりましたので、私は安心してこれまでの総てを話す事が出来ました。私が話した後に母への聞き取りもありました。その時、母が話したのか、私の金の使用は自己管理ではなく、使う度に職員に申告することになりました。

 入寮した殆どの人が金の使用は申告する事になりますが、例外の人もおりました。後述する若いT君等です。その時は、私は羨ましかったです。現在一人暮らしするようになり、あの時の、金銭の、自己管理ではなく、申告制による厳しさが身にしみておりますので、その厳しさが今、私の生活に、役立っていると思います。

 聞き取りの終了後、私は母とWさんと一緒に銀行に出かけました。その時母が行員に対して私への暴言を吐きました。「この人は何も出来ない人ですから。」と。確かにそうかもしれませんが、私は恥ずかしさと共に、母に、何故30年も入院させておいたのだと言いたくなりました。でも私は行員の前でちゃんと預金の積み立ては出来ましたので、俺でも出来ると言う自信になりました。

 寮に戻り食事をすませて部屋に入ると、疲れたせいか私は、ばたんきゅうで、すぐ寝てしまいました。この状態が入寮後10日も続きましたので私はどうしてかと不安になりました。でも入寮後、10日を過ぎますと解消しましたので私はほっとしました。これは恐らく病院と一般社会での神経の疲労度の差ではなかったかと思います。

 1週間程、私はお客さんでしたが、その後私は寮生全員でする食事当番に参加する事になりました。食事当番は4人編成で4班に分かれてやっておりましたし、4人の中に職員が必ず一人は入り、食事作りを指導しておりました。朝食の用意は午前6時からで、夕食は午後4時半からでした。昼食は寮生各自が用意して、料理を作ったり、弁当等を頼んで食べておりました。

 私の班には前記した若いT君と、ベテランのYさん、T君と同じ若さのH君がおりました。私は、料理は上手ではなく、いつもYさんが中心になり、やっておりました。私の班は私が冗舌で互いに喋りながらやっておりましたので、他の班より活気があったかもしれません。Yさんには私がボスというあだ名をつけて難しい料理をやって頂きました。

 T君と私は気が合い、私の手が空いている時はT君を手伝い、T君の手が空いている時は私を手伝ってくれました。Yさんに私は、米とぎと炊飯器に入れる水の量を教えて頂きました。私は今でも飯炊きだけは上手ですし、私が炊いたご飯を美味いと言って食べてくれる寮生が多いので、私は私の班の飯炊きの専任となりました。H君は若いながら料理は上手でしたが、食事当番のとき休む事がありましたので、私達には不満でした。当時、T君が逞しい太い腕で、大根1本をすっていた姿が、私の記憶に強く残ります。

現在、援護寮の食事当番はなくなり、朝晩の食事は弁当になりました。ただ食事作りは残り、班編成ではなく、職員が寮生を2人ずつマンツーマンで教えております。私は食事作りのやり方が変わったと聞き、それは上手くないと思いましたが、現在は、個人的に覚えたほうが、私の一人暮らしの体験から、マンツーマンの方がよいと思うようになりました。
2011/05/01(日)10:44


Y・Nさん



このあいだ5月16日、病院へ友人と2人でいった。その日は外来がすいていていつもより30分位早く終った。薬をもらっても3時頃だった。「今日は早いから、どこかいってみよう」という話になり、山と海どっちがいいの?というので私は海と即答した。そして閖上にいってみた。ほんとうに久し振りに海へいった。立夏がすぎ、暦の上では、もう夏だったが、風は冷たく、海辺には、カフカをはじめとして、だれもいなかった。遠く仙台港からも、フェリーや貨物船が、出船していたが、それらはまるで動いていないようにみえた。私は海派、友人は山派だった。私がまだ少年の頃、あるいて5分位の所、長町市民プールがあり、夏休みには、毎日かよっていた。3時間から4時間をプールですごした。そして帰りには、お好み焼をたべてかえるというのが日課だった。そんなわけで、小学校5,6年生のころには、水泳大会でよく賞状をもらった。また、親族一同集まって、テントをかり、海でのキャンプも毎年のようにやっていた。流木をひろい、ご飲は飯ごうで、たいて、魚のおかずでよくたべた、すいか割りもたのしかった。一度ドザエモンをみて、気色悪くなり、すぐ解散ということもあった。高校時代には、毎年野蒜で、キャンプをやった。仙石線を野蒜でおりると酒屋が、あり、サッポロジャイアンツを冷しておいてくれるようにたのんで、夜は花火大会をしながらビールをのんだ。また、海岸線はよく整備された、道路があり、地元の暴走族のお兄さんが、バイクの爆音高くいったり、きたりしていた。

また大学に入ってからは、友人の車で、仙台から、気仙沼さらに、岩手県の三陸リアス式海岸を北上して、盛岡を経由して高速道路を帰ってくるというのもたのしい旅行だった。気仙沼では車を、港近くの、立体駐車場にとめて、舟でまで、渡り、バスにのって民宿のあつまっている所までいった。途中、島に1つだけの信号があり歓声があがった。民宿に荷物をあずけ、海にゆくと、仙台なんかより水はずいぶん冷たく感じられた。民宿もお婆さんで、いっぱいだった。すこし泳いで、からからの咽に流しこむビールはこの世のものとは、思えないほど美味だった。別料金で刺身をたのんだら舟盛りが出てきた。新鮮なまだ生きているウニがとくに美味だった。翌日は、亀山のリフトにのり、山頂にまでくると、360°みわたせる絶好のロケーションだった。気仙沼港は、船でいっぱいだった。11時頃、くらげがいっぱいの船着場をあとにし、大船渡、釜石、ととおり北上をつづけた。釜石なんていう所は、町のまん中に、新日鉄の溶こう炉がそびえたっていた。

三陸のリアス式海岸は、どこもすてきな海水浴場だった。宮古につくまでに、2,3か所で泳いだ。宮古で一泊し、次の日には、盛岡まで出て、高速をのんびり走りかえってきた。ずいぶん日に焼けた。たのしい旅行だった。(私はまだ発病まえだった) 病気になってからはあれだけ好きだった海にもいかず、海水浴も、プールにさえいかなくなっていた。海の潮のかおりをすっかり忘れていた。私は部屋にこもるようになり、幻聴に悩まされ、一日中寝ているようになった。心配した友人がドライブや、飲みに行こうなんてさそってくれても、調子が悪いとことわるようになり、家から出ず、新聞もTVも見ず、好きなLPをヘットホンで聴きながら、お酒をのんでいるようになった。話が暗くなったので、ここで終了。
プロフィール

○○ ○○

Author:○○ ○○


宮城精神しょうがい者団体連絡会議(宮精連)です。


私たちの団体は、
主に宮城県内で活動し、
定例の会議(討論会)を通じて、
精神の病気で大変な想いや、
体験談を語り、
社会と精神当事者を結ぶ団体です。




ブログ管理人、
○○ ○○。

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